いじめられる側の感覚、いじめる側の感覚
久々の記事更新になります。
昨日、山口県光市の高校で、生徒が他の教室に向かって火薬入りガラス瓶を投げ込んで、教室内の生徒が多数負傷したという事件。
かなりショッキングな事件であることには間違いはありませんが、この手の事件が起きると、いじめに対する学校側の責任とか保護者側の監督責任だとかを問う論調が必ず出てきます。
ただ今回の場合、いろいろな状況を見聞きしているうちに、単純にいじめとかそういうくくりで片づけることが出来る話なのかなという疑念が浮かんできました。
新聞記事によると、事件の動機が「(爆発物を投げ込んだ)組の生徒にからかわれ、腹が立っていた」ということを供述しているらしいということのようです。まあ、個人的怨恨が積もり積もって…というのは非常に一般的な見方かもしれませんし、実際そういう要因があるのは事実なんでしょうけど、問題はその「個人的怨恨」というのがどういう形で蓄積されたかって事だろうと思うんですよね。
単純に見てしまうと、加害者の生徒に対していじめがあったという安易な見方をしてしまいがちなんですけど、この「からかわれていた」というのが果たしてどういう内容なのかというのを良く検証してみる必要があるだろうと思うんですよ。
例えば、からかっている側にとってはほんの些細な冗談のつもりで喋ったこと(例えば身体的なものだとか性格的なものだとか)であっても、からかわれている側がそれを真に受けてしまうと、つまりはからかわれている側にとって一種の「いじめ」と受け取られてしまうということになりますよね。これがもし日常会話の中で繰り広げられていたとしたら…結果的に暴発しかねない火種になってしまうということにもなるわけですよね。
この手の話でやっかいなのは、からかっている側にとってはいじめの意識は全くないということだろうと思います。つまり、いじめようと思って(仮想敵として、あるいはストレスのはけ口として)やっているわけではなく、あくまでも日常の会話や行動の中でやっているとしたら、簡単に「いじめをやめましょう」という類の話ではなくなるような気がするんですよね。
もちろん、そういう前提だとすれば、受け手側(からかわれている側)の受け取り方にも全く問題がないというわけではないと思いますし(個人的経験からいえば、受け手側の心の持ちよう一つでいじめがいじめでなくなる例というのは結構あると思います。もちろん、暴力や陰湿ないじめは論外ですが)あるいは今回の事件も、加害者(=からかわれている側)の生徒のきまじめさが故…ということのような気がします。
あまりにも初期情報だけで判断するのもどうかとは思いますけど…
【補記】
6月になってからまだ一件も記事を書いていなかったのは、単に本業が忙しかったのと、プライベートでネットに接する機会がなかった(さすがに職場からブログを更新するわけにも行かないでしょうから)というだけですので、他意はありません。あしからず。
(逆に言うと、今後も突発的にこういう状況に陥る可能性もありますので、ご容赦くださいませ)
« 実名と匿名と仮名と | トップページ | JR福知山線・運転再開の裏で »
この記事へのコメントは終了しました。
コメント